第三章 利益衡量を必要としない基準:何が不足しているのか

 インターネット上の捜索は、従来の基準のもとでは違憲であると考えられるが、利益衡量基準のもとでは合憲であるという結論は、利益衡量基準へ移行するために、「明確な境界」基準を破棄する際の、潜在的で不明確な危険性を浮き彫りにしているのである。(95)そのような転換における最大の欠点として指摘されているのは、司法裁量の問題であるが、(96)利益衡量基準が、利益衡量を必要としない場合に、それほどはっきりしたものではないが、確かに重大な危険性が明らかとなるのである。それは、もとの基準に含まれている重要な利益が、利益衡量基準に関連する要素が確立した場合に、失われるかもしれないという可能性である。(97)裁判所は、特定の要素を明らかにすることは、できないのではないかと考えられる。なぜなら、それらの要素は、限られた期間にしか存在せず、明確に説明することは困難であり、それらを明らかにしたとしても政治的に受けが良いものではないからである。(98)インターネット上の捜索に関して、以上のような事柄は、次のような問題を提起するのである。現在説明されている利益衡量基準には、何が欠けていると考えられるのか。違法なものを発見するにすぎず、捜索対象物に対して実質的に負担をかけず、無関係な個人情報を暴露することもないコンピュータを導入した捜索に対して、どのような点が修正第4条との関係において問題となるのか。
 この問題の端緒となった本来の空間は、以前の「明確な境界」基準のもとでは特別の保護を与えられていた住居や事務所と、コンピュータとの間の空間である。何百万ものアメリカ人が、日々進歩していく中で、コンピュータは、我々の考えをまとめたり記録したり、生活設計をしたり、他人とのコミュニケーションを維持するための道具となっている。コンピュータは、我々の日記であり、手帳であり、小切手帳であり、そして、レター・ファイルである。住居や事務所に自然に付随している諸価値 - プライバシー、個人的な事柄(intimacy)、そして、安全、- は、いやおうなしに、そのような場所に置かれているコンピュータにも、適用されるのである。
 それにもかかわらず、サイバースペース全域に広がっているコンピュータが、住居や事務所と同レベルの保護を受けるに値すると言うためには、そうした問いに対する解答が与えられてはじめて可能となることであり、「犯罪は、それが個人の住居の私的な領域内においてであっても、当然、社会の重大な関心事である・・・」(99)ことは確かであり、修正第4条は、住居の捜索に対して絶対的な障壁の役割を果たすものではなく、そして、アーノルド・ローウィー(Arnold Loewy)が述べているように、「個人がそのような証拠を秘密にしておく固有の権利を有さない」(100)のは、政府が、犯罪の証拠を、捜索し押収する権利を有しているからである。犯罪の証拠が、住居内にあるという事実は、その所有者に対して、その証拠を発見されないように隠しておく権利を与えるということではないのである。
 しかしながら、「もし、(禁制品を)正確に発見し、人々の日常的な(活動)に対して障害とならない装置が発明されれば、それを使用したとしても、修正第4条にはなんら反することはない」(101)というローウィー教授の結論は、修正第4条は単に無実の市民が、侵入的な捜索・押収から可能なかぎり自由であることを保障するために存在しているにすぎないという、彼の信じる公理(axiom)を受け入れた場合にのみ理解することができるにすぎない。彼の考えでは、捜索が、付帯的損害なしで行なわれるかぎり、「証拠を発見する魔法の杖(evidence-detecting divining rod)」(102)による捜索に対して、無実の者が異議を唱えることはできないのである。ローウィー教授の公理は、現在の裁判所により受け入れられているように思われるが、(103)政府が独自に犯罪の証拠を明らかにするまで、政府の干渉から安全である領域を与える政策的利益が、少なくとも二つは存在する。これらの利益は、住居や事務所の役割において基本的な利益であるため、それらは、以前の「明確な境界」基準には、もともと暗黙のうちに、必然的に組み込まれていたのである。さらに、これらの利益は、社会の安寧のためにも基本的な利益であることから、現在の利益衡量基準にもさらに取り入れられるべきであろう。

一、自立性と安全地帯の必要性

 住居や事務所が、外界からの精神的な聖域として常に重要な役割を果たしてきたのは明らかである。「証拠を発見する魔法の杖(evidence-detecting divining rod)」のようなインターネット上の捜索は、各個人の聖域に対する感覚が、外界へと流れ出る個人情報をコントロールするかということに、どれほど左右されるかという問題を提起している。一見したところでは、一般市民は、ある特定の違法行為に対して当然行なわれるべき捜索によって脅かされることがないのは明らかであるように思われるが、社会的に非難される行為が、犯罪行為であるとされる可能性を常に前もって予見することはできないのであり、そのことは、インターネット上の捜索が、そのような行為を行なう上での個人の安全を減退させるということを暗に示しているといえる。そのうえ、捜索は、犯罪の疑いのある行為に対して行なわれると考えられ、犯罪性のない行為に対しては行なわれないということを、捜索の対象となる人は知っているため、捜索は、そのような活動に対する委縮効果(chilling effect)を持つと考えられる。
 個人情報の流出を制限することができるということが、外界とのゆるぎない関係を確立する個人の能力の中で、重要な構成要素であることは以前から認められてきたことである。アラン・ウエスティン(Alan Westin)は、1967年の彼の著書の中で、プライバシーの権利とは、個人又は団体に関する情報へのアクセスに対して、利用できる情報をコントロールすることができる権利として定義すべきであると論じた。(104)情報に対するこのような権限は、個人に対して、自分が他人からどのように見えるかを、ある程度決めることを可能とし、その結果として、社会との相互作用をある程度コントロールすることを可能にしている。(105)そのようなコントロールがなければ、個人の心理的平安は危険にされされることとなり、社会一般からの自立性の保障を脅かすことになるのである。(106)そのような空間の必要性の認識は、ボイド事件判決の中で明らかにされている。修正第4条に反する「犯罪の本質を構成する行為は、ドアを破壊したり、たんすの引き出しを捜索するといった行為ではなく、不可侵の権利である個人の安全の権利や個人の自由の権利、そして、個人の財産権に対する侵入行為」である。(107)そのような領域の安全を保障するために、憲法起草者達は、「政府に対抗する権利として、ひとりで居させてもらう権利(the right to be let alone)を与えた」のである。(108)
 本来、自らに関するすべての情報を、完全にコントロールすることができる者はいない。なぜなら、人々は常に互いに影響しあっており、他人が知り得た自らの情報については、コントロールを失っているのである。(109)さらに、個人は常に社会の中で社会の一員として行動しているため、その結果として、他人が自分の行動を観察したり、その行動に推測を加えたりする危険性が伴うのである。それにもかかわらず、社会の中で社会の一員として行なわれる個人の行動は、(110)ある程度自発的な行動であり、第三者が、そのような情報を気が付かないうちに、無断で入手し公表する(divulge)危険性を当然承知しているのである。これは、人間の相互作用における自然な側面であり、住居や事務所以外の場所において、情報のコントロールを喪失しても、「私的な生活を送っていると考えられる、私的な領域」(111)が存在することによって、均衡が保たれているのである。住居や事務所は、個人の安全な領域と、公の生活領域の間の境界を設定する際に、重要な役割を果たしているのである。
 インターネット上の捜索が、「違法なものと関連のある」情報のみを捜しだすのは事実である。しかし、何が違法で、何が関連のある情報なのかを定義するのは、社会一般であって、個人ではないのである。数は限られているが、一つ一つ例が挙げられている実体的な制限以外は、社会的に非難される行為はいかなるものであっても、事実上、多数派の裁量によって犯罪行為であるとされてしまうのである。個人は、そのような行為に関連のある情報が、明かされたのかどうかを知ることはできないのである。以上から考えてみると、インターネット上の捜索や、「証拠を発見する魔法の杖(evidence-detecting divining rod)」のような形態をとる捜索は、個人に対して、自らに関する情報を確実にコントロールすることができる領域を、否定しているという重要な問題が明らかになる。(112)要するに、個人が、自らの情報を暴露される危険性について、心配する必要のない安全地帯(refuge)は残っていない。というのは、安全な領域と公の生活領域との間の境界のコントロールは失われており、同時に、そのような領域の安全も失われているのである。
 インターネット上の捜索のような特殊な事例においては、コントロール可能な領域の必要性は、「委縮効果」の問題と密接に関連している。インターネット全域にわたる理論上の捜索とともに表面化し、多くの人々が異論を唱えてきたことは、政府が児童ポルノのコピーを捜索することができるということは、同様の技術を用いれば、共産党の著作物を捜索することもまた可能であるということなのである。テリー事件において裁判所が述べたように、それに対する明確な解答は、修正第4条は「憲法上保護されたものに対する無令状の侵入と非常に似通った行為に基づいた捜査であっても、正当な警察の捜査によって得られた証拠を、証拠から排除するよう訴えることは当然できない」(113)というものである。換言すれば、捜査官が、無令状でドアを破壊することが憲法上認められていないということは、捜査官が、令状を持っていれば、そのような行為は、認められるということである。
 「委縮効果(chilling effect)」とは、「強制的な権限を、現在又は将来行使すること若しくはそれを行使すると威嚇すること」(114)によって、修正第1条によって保障されている諸自由を委縮させる、政府の行為であると定義するならば、個人が、自らの最も私的な領域の境界を、コントロールする権利を無視する捜索は、強制的な権限行使の脅威の一つということになるであろう。たとえ政府が捜索の際に、社会的に非難されているファイルや対象物よりはむしろ、違法な物に限定して捜索を行なおうとしても、いかなるときでも予告なしに、政府は容易にそして都合よく、社会的に非難されているファイルも含めるように、その捜索の範囲を広げることができるのである。(115)植民地時代の一般捜索(general search)とは異なり、拡大されたインターネット上の捜索は、対象者の認識なしに行なわれることもありうるということがわかれば、その可能性は増大するのである。個人のコンピュータが、ますます、自らの最も私的な考えを組み立て、表現し、記録する道具として用いられているため、反社会的な思想を有する人々は、最も私的な表現手段においてでさえコントロールすることができないと気が付いたとき、自らの思想を表現する際に当然それに対する抑圧を感じることとなるのである。(116)
 それとは対照的に、住居や事務所の捜索は、個別化された被疑事実に基づいて行なわれるということを強調する基準は、政府に対して、すでに個人のコントロールから外れている情報に基づいて、まず始めに合理的な確信を得るよう要求すると考えられる。言い換えれば、ある個人が、自分がコントロールできる領域の外側で、秘密を暴露しようとしている動きを察知して行動しているかぎりは、 公の関心を、当然引くものと認識しているため、その人物は政府の侵入に対して無防備となってしまうのである。(117)この「明確な境界」基準は、住居の境界に実質的な障壁を立てることによって、各個人それぞれに対して、個人情報の流れをある程度コントロールすることを、保障しているのである。なぜなら、「明確な境界」基準は、他人の存在を気にする必要のない領域のコントロールを保障しているからである。(118)

二、政府の権限の制限

 インターネット上の捜索に対する二つ目の反対意見は、政府は限られた権限のみを行使すべきであるという原則に、見いだすことができる。個人に証拠を隠しておく権利がないということは、政府に完ぺきな法強制力を与えることが望ましいとか、また、それが適当であるということではない。ワッツ事件の法廷意見の一部に同意したジャクソン(Jackson)判事は、合衆国憲法及び権利章典は、「個人の権限よりも優位に立つ組織化された社会の権限に対して、組織化された社会の維持と両立しうるように、最大限の制約を示す」(119)ことを意図していると述べた。以上の見解が示唆していることは、修正第4条は、単に無実の市民を無令状の侵入から保護する役割以上に、政府の権限全般にわたる重要な手続的チェックとしての役割を果たすものであるということなのである。
 合衆国憲法及び権利章典が、政府の権限に対して特定の実体的制約を課していることは、当然明らかであり ・ 「連邦議会は、国教の樹立を制限する法律を制定してはならない」(120)という制限以外も考慮にいれる必要がある。しかしながら、憲法は、同様に重要な規定として、権限行使に対する手続的制限について規定している。その例として、憲法が二院制を要求していること、そして、法律の制定には、大統領の署名及び両議院の3分の2の議員による可決を必要としていることなどである。(121)そのような手続的保障条項を満たすことなく、政府が法律を制定することを可能にするということは、不合理で打算的な便宜主義に基づいた行為を政府に許すということなのである。このように、保障条項は、政府の権限拡大を抑制する機能を果たしているのである。(122)
 同様に、修正第4条は、政府の権限に対する意図的な制約として考えられている。確かに、裁判所が認めてきたように、「憲法が、すべての人々のプライバシーを保護するために、犯罪行為のうちのいくつかを、隔離しようとしている現実において、新しいことは何もなく」(123) 、新しいことといえば、犯罪行為を最小限に抑える上で生じる「代償」は、実際のところ、修正第4条が暗黙のうちに発展させてきた利益の一つであるという現実である。援助令状(the writs of assistance)と闘った入植者達は、少なくとも、税関の捜索が不成功に終わった場合でも、成功した場合と同様に、怒りを表わにしたということに関しては議論の余地がある。(124)住居のプライバシーの中に隠されていた犯罪の形跡を、発見することができた政府は、強大な権限を自らの手中に収め、その権限を集中させ、そして、市民に対してはわずかな自由しか保障してこなかったその政府なのである。(125)
 ボイド事件判決において体系化された財産権の保護は、自由を保障するという実体的な目標を成就するための、手続的な保障手段として認識されよう。(126)個人のプライバシーの領域の境界を確定すること以上に、財産権は私的な団体に、政府から独立し ・ そして潜在的に対立した ・ 権限の源を与えることとなっているのである。(127)憲法起草者達の主な関心が、単に特定の政府の実質的な犯罪行為に向けられていたのであったとすれば、彼らはそういった犯罪行為を禁じただけの修正条項を起草したであろう。(128)その代わりに、起草者達は、修正条項をかなり広範囲にわたって規定することを選んだのである。彼らが作り出したものが、憲法であることは言うまでもないが、憲法がその発展過程において、新しい問題にも、そして予見できない問題にも直面するであろうという認識があったため、起草者達は、政府による権限の濫用を制限するために、柔軟で包括的な規定を選択することとなったと考えられる。政府から独立した権利として、財産権のような規定を選択することにより、実質的に、政府のすべての行為が制約される空間を保障したのである。
 分離し孤立している少数派が、法的に保護されている民主主義制度のもとにおいてでさえ、犯罪行為が、重要な機能を果たすこともありうるのである。既定の法律を限定的に侵害することは、社会の保険の一形態とみなされており、その可能性に対して社会を守ろうとする政府の政策は、誤りである。いかなる実体的な権利も侵害されなければ、政府の行為は常に一貫しているわけではなく、よく考慮されているわけでもない。というのも、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)が憲法制定会議で述べたように、「法というものは、不公平で、不得策で、危険で、破壊的なものであるのかもしれない。しかしながら、裁判官が、法に効力を与えるのを拒否する行為を正当化することが、憲法に反しているとはいえない」(129)のである。人々は、罰せられる可能性があるにもかかわらず、そのような法律を無視することがあるが、そのような行動は、大多数の者が考えもせずに排除してきた機会を、維持することもあるのである。そのうえ、少数の者による継続的な法律への不服従は、社会が法律を再評価するのを促進する力となることもあるのである。
 ある意味で犯罪は、政府と市民の少数派の間に生じる微妙な交渉過程において、目的を達成するのに役立つこともありうるし、それら市民の間においては、政府が無力であることを証明することもあるのである。少数派が、意思決定者達に対してある程度の影響を及ぼすことができるところでは、彼らは、特に負担となっている法律に対し、大きく抵抗することによって政策決定に影響を及ぼすことが可能な場合もあるのである。(130)その例として、ストライキが非合法である場合には、「景気後退」が、労働改革に拍車を掛けるであろう。徴兵忌避が行なわれると、論争の的となっている戦争を続けることが困難になるであろう。そして、無断定住が行なわれると、その他の方法を選択しても効果がないとなれば、土地改革が促進されるであろう。より小さな規模においては、法律が効果的に治安を維持することができない損害に対して、犯罪行為が、局部的な強制力の役割を果たしているといっても差し支えないのである。不法侵入してきた牡牛を去勢した、シャスタ郡(Shasta County)の農場主の行動は、ある意味では犯罪行為である、しかしながら、不必要な穀物の損害を防ぐために、自分たちの家畜を管理するよう牧場主達に促す社会規範を、支持をもしているのである。(131)
 このような再評価が行なわれる可能性は、社会的な変化が問題となっている時には特に意義があるのである。社会が最も恐れている事が、犯罪行為であるとされる限りは、刑法が、集団の偏見や現状に対する不合理な欲求を表わすこともあるのである。(132)社会的に非難されている活動が、現在は憲法によって実質的に保護されているという認識だけで、もし、それらの活動に対する、すべての実質的な保護に対して制約を加えるならば、社会発展の可能性にも制約を加えることになるのである。今日我々は、人種差別やマッカーシズムは、単に不公平で不得策であるばかりでなく、実際に違憲であると認識している。(133)政府が、憲法に従っているという多数意思にそって、(134)1950年に完全に法を強制することができていたならば、人種差別もマッカーシズムの両者とも、現在まで継続していた可能性は高い。その代わりに、「犯罪」行為は、社会に変化をもたらす方向へと導いたのである。デュルケーム(Durkheim)がかつて述べたように、「犯罪というものは、避けられない変化に対する道を開放するだけでなく、ある特定の事件においては、それは直接、変化への準備となる・・・まったく、幾度となく、それは将来の道徳体系 ・ 来るべき状況へのステップ ・ の予兆にすぎなかったことか」(135)
 おおかたの変化は、明示的な道徳的根拠を基礎とした、市民の抵抗を通して成し遂げられるのは明らかであるが、それ以上に、利己的な根拠に基づいた、隠れた抵抗を通して成し遂げられることのほうが、多いのである。農場主、徴兵忌避者、不法居住者、そして保守的な(slow)労働者達の行為は、イデオロギーによって正当化されるであろう、しかし、このような行為の大部分は、自己の利益のために行なわれたといってもよいものであろうし、さらに、その行為を行なうことによって直接的に得られる利益よりも、直接的なコストのほうが大きいと知るに至った場合には、そのような行為は行なわれなかったであろう。(136)南部における公民権運動でさえ、その運動は支持するが、そのことを明らかにしたくないという、影ながらその運動を支えていた人々によって、行なわれていたのは重要なことである。(137)政府に対する大規模の抵抗運動は、相当な刑罰が科される危険性がある場合には、困難であることはいうまでもない。ましてや、刑罰が科されるのが確実である場合には、実質的にそのような運動を行うのは、不可能である。
 現代社会においては、多数者の優越という問題は、規制行政の規模が、大きくなっているという問題と結びついている。毎年、様々な政府機関が、膨大な数の規則を制定し、通常人にとってその大部分は、制定前に考察することも、一度施行されれば知ることもない規則なのである。そのような法律の総計は、驚異的な数にのぼる。ある論者は、刑事法上の強制力を有する連邦レベルの規則だけでも、30万を超えると見積もっている。(138)すべての法律の規定が、明確なものであったとしても、そして、本質的に、いかなる現行法にも抵触しないとしても、法律や規則の数が多いことは、個人にとってそれらを認識することは困難であり、いわんや、それらすべてに従うことなど到底不可能である。(139)
 その結果、非常に多くのアメリカ人が、常になんらかの法律を犯しており、そのような違反をすると政府の刑罰権に晒されることとなるのである。(140)もし政府が、このような違反に急に気が付くようなことになれば、個人の名声、財産、そして自由でさえも、政府の裁量に服さなければならなくなるであろう。(141)その裁量は、個人へと向けられ、本来犯罪行為とはまったく関係のない、社会的に非難されている行為に従事するのを思い止まらせるのに用いられるはずである。膨大な数にのぼる法律違反が、発見されることは決してないであろうという事実だけで、自らの法的地位に関して常に関心を持つことなしに、生活を送ることができると考えることができるのである。(142)政府の権力が及ぶ範囲が制限されているということだけでも、自らの自律性(autonomy)が保障されていると実感することができるのである。
 現在の法律が及ぶ範囲が、しばしば不明瞭であるということが、問題を複雑にしているのである。例えば、日常の生活において行なわれている様々な事柄の中で、いつ法律を犯したのかということを見極めるのは困難である。著作権法で保護された著作物を、正当に使用しているであろうか。(143)子供を連想させる写真は、自動ポルノであると考えられるのか。(144)ティーン・エイジャーのアルバイトを雇うと、社会保障費を支払う必要があるのか。(145)今日のアメリカにおいて、どれほどの人が、今までに、刑罰規定を有するいかなる法律にも違反したことがないと、自信をもって言うことができるであろうか。
 住居や事務所といった安全な領域を保護することが、政府の法執行権限が妨げられた空間を確保することを可能とし、法律に従わない行為を行なうことを可能にしているのである。このような見解からは、この領域は、ボウワーズ事件(146)において問題となり、否定された、一般的なプライバシーの権利のような権利に、その起源があるという見解は、おそらく受け入れられないであろう。しかしながら、そのような拡張的なプライバシーの権利が、ここで提案した目的を達するのは確実であろうが、そのような確固不抜な結論は、到底必要ないのである。立法者達は、それでもやはり、住居や事務所の中で行なわれる活動を禁止し、法執行官もなお、そのような違法行為を訴追するであろう。法に背く行為を行なう者は、社会はそのような行為を認めないということ、そして、罰せられる危険性があるということを肝に銘じておかなくてはならない。共犯者が、 ・ または、保護された領域外でそのような行為が行なわれたことによって ・ 法執行官へ犯罪を暴露することもありうる。そのような暴露によって犯罪行為が発見された者は、それ相応の刑罰に服することになるであろう。
 それにもかかわらず、それほど問題とはならない犯罪を残しておくこと、そして、政府の刑罰権から、ある程度の自由を個人に残しておくことは、社会に柔軟性をほとんど与えない捜査技術に対して影響していると 、修正第4条はみなしているように思われる。ある意味では、法に従わないことが必要であるということを考えることは、裁判所にとっては逆説的であるようにも思える。また、明らかに非民主主義的な理想を支持するために、憲法は、個人の権利を保護すべきであるということは、常に矛盾していると考えられてきたことは言うまでもない。(147)その両者において、小さくそして基本的な抵抗は、民主主義を均衡がとれて機能するようにするという理解に基づき、憲法は、多数者への抵抗を認容しているのである。


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©1996 by Yale Law Journal.(Reprinted by permission of The Yale Law Journal Company and Fred B. Rothman Company from The Yale Law Journal, Vol. 105, pages 1093-1120.)Translated by Shimpo,Fumio.